クララ・クラフト
映像作品『Suitcase City』『Smog』
家とは永遠に未完成のもの。その建築的特性は、一週的で、柔軟、交換可能であり、かつ開かれたものであるべきだ。また、家は思い出を宿すが、同時に他者性、屋外性、形態の交換も可能であるべきだ。長い間、私はスーツケースに自分の本当に持ちたいものだけを入れて来た。しかし、時と共にそれらは失われ、入れ替わり、そのうち、本当にその中にしまっておきたいものは結局目的地ではなく、自分の内面の必然性から決まるということに気がついた。もしもそのスーツケースが、私の家であり、同時に私自身だったなら、周辺環境に適応し常に変化を続ける家だけが生き残るのではないだろうか。私の思考は別荘や空、家、そしてスーツケースを漂いながら、新たな居住空間の可敵性について考察の旅に出る。
建築と映画
ディプロマ・ユニット3研究室のパスカル・シェーニング教授が、かつて作品発表の際には自分の制作した映像にすべてを語らせるべきだと言っていたように、映画はプロジェクトの紹介と導入に有益だろう。たとえ、そのすべての要素を理解できなくても、ナレーション、シークエンス、イメージの断片は、たとえ一瞬でも、観客に認識される。これが、かつてシェーニング教授が述べた映画における建築性のことだと思う。映像と共に流れる時間の中で、観る者が建築空間を創出する。
どれだけ注意深く、作者がその空間をデザインするかにより、現実性やプロジェクト全体の理解は高まるだろう。建築空間に映像表現による新たな現実性を植え付けることこそが、ディプロマユニット3研究室の手法であると言っても過言ではないだろう。私が今回発表した映像作品への反応だが、日本語字幕がないにも関わらず、建築のもつ特殊な繊細さへ立ち入るというプロジェクトの目的への理解は得られたと思う。これが重要な点であり、全体を完全に理解されなくても、議論・発展させるべきポイントを抽出し、次の段階への問題提起となったはずだ。
ディプロマ・ユニット3言語
AAスクールのユニット3(通称DIP3)シェーニング研究室での言語は、研究室内で特化され、ローカライズされたいわば学術的特殊言語だ。実際、私自身が通りを隔てたロンドン大学で教鞭を執り始めた当初は、私のボキャブラリーを同僚の教員たちが理解できないくらい奇異なものだった。これは、たとえAAスクール内でも、各研究室ごとに自分たちを外部批判から守るための、一種の言語によるシェルター化でもある。このようなプロセスが独創性や不思議な魅力を与え、各研究室がそれぞれ独自の方向へと分かれ、独自性を持つことになる。外部からAAスクールでのプレゼンテーションを見に来る者は、その(デザイン的な意味での)作品に加え、言語への対応も必要となる。
CATへ
最後に、CATによる、サロン的なCinématic Architectureについての講演の機会はとても有意義な経験だった。そこで交わした会話、多くの質問がとても創造的で印象深い。このような雰囲気のアカデミーが東京で開催されるのは大変喜ばしい。